六本木ヒルズ、東京ミッドタウン、ネオンさんざめく飲食店、点在する各国の大使館……昼は活気を持ち、夜も明るさを失わない六本木。
東京で最も賑やかな街の1つとされるこの六本木だが、江戸時代は藩邸街、明治期から戦前にかけては華族の屋敷街であり“元祖・山の手”とでも言うべき高級住宅街であったことは、意外にもあまり知られていない。
「六本木」という地名が付けられたのには、いくつかの説がある。
1つは「6本の松の木があった」こと。江戸期のこの界隈は門前町であったこともあり、かつての光景としては「さもありなん」。本当かもしれない、と思わせる一説だ。
似たような説には「幹が6股の大イチョウがあった」というものもある。こちらも容易に想像がつき、なかなか信憑性がある。

また1つには、江戸期に「青木氏、一柳氏、上杉氏、片桐氏、朽木氏、高木氏それぞれの大名屋敷が建っていた」という説もある。各大名の名字を見てみると、確かにいずれも“木”に関係しているものばかり。昔ながらの出で立ちを持つ「六本木西公園」などを見るにつけ、「この説も本当かもしれない」などと、歴史の謎に楽しく引き込まれてしまう。
上記の大名屋敷は、恐らく立派なものだったであろう。しかし、この六本木あたりで偉容を誇っていたのは、何と言っても大名の中でも名門の長府藩毛利家の「麻布日ヶ窪上屋敷」ではないか。家屋は現存しないが、庭園は時を超えて手入れが施され、現在はなんと六本木ヒルズの中に保存。高層ビルの隙間を埋める現代のオアシスとなっている。

この屋敷は「忠臣蔵」で有名な赤穂浪士の一部が主君を後追いして果てた地であり、日露戦争の英雄、陸軍大将・乃木希典の生誕地でもあったという。六本木は、武家の者が集った場所ならではのエピソードを持つ地でもあるわけだ。
武士の時代が終わり、明治期になっても、六本木は選ばれた者が住む「一等地」であり続けた。もともと江戸市中の端ということで、交通は便利。のちには市電も通るようになる。そして、晴れた日には名峰・富士山を望むことができる。人気が集まらないわけがない。

大名屋敷が持っていた雰囲気は、そのまま華族の邸宅、財政界の大立て者の住居のあるまちとして受け継がれていく。旧岩崎邸(三菱財閥)だった「国際文化会館」などは、いまなおその面影を色濃くとどめている光景。また、現在でも六本木に大使館多いのは上記のことも関係しているだろう。
一方、六本木は文豪たちが腰を落ち着けたまちでもあった。島崎藤村・梶井基次郎・伊藤整・三好達治と、近代文学ファンならずともその名を知る顔ぶれの文士たちが六本木に住まい、数々の作品を残した。
その中で最も有名なのが、永井荷風だ。当時の内務省に勤務していた父を持つ良家の子息であった荷風は、大正9(1920)年、現在の六本木一丁目に「偏奇館」なる洋館を建築する。ペンキ塗りの瀟洒な建物は、当時はさぞかし人目を引いたことだろう。残念ながら偏奇館は昭和20(1945)年の東京大空襲で焼失。しばらくは建物があったことを示す案内板があったが、現在の「泉ガーデン」建設により、もはや目にすることはできない。
偏奇館の焼失から数ヶ月、第二次世界大戦は終わり、六本木にあった軍事施設は連合国軍およびアメリカ軍に接収される。そのあたりから六本木には外国人向けの商店や飲食店が並びだし、現在の国際色豊かなムードが作られるようになった。それから遅れること数年間、六本木界隈にはいくつかのテレビ局が開局。芸能人御用達の店も加わり、ますます賑わいを見せていく。
その賑わいは、現在の六本木となんら変わりがない。軍事施設が姿を消しても、六本木は人々に愛されるまちであり続けている。
それに加え、IT事業や金融事業などといったインテリジェンスあふれる、時代の最先端を行くビジネスがこの六本木で成長中。パリッとしたスーツに身を包むエクゼクティブたちが、今日も街を闊歩している。
品格ある歴史を誇り、華やかな賑わいを持ち、未来への可能性あふれるビジネスが発信される街、六本木。ほかのエリアにはなかなかない希有な魅力は、昔の大名や華族よろしく実際に住んでみることで、より実感できることだろう。