地下鉄が便利!市ヶ谷・牛込エリアの交通事情

市ヶ谷駅 

「市ヶ谷」という地名の由来は、「東京湾から見て、山の手台地の一番目の谷に当たるから」という説と、「市が立つ場所である『市買』が訛った」という二つの説がある。その天然の谷を利用したのが「外濠」で、現在ではJR中央線・総武線がその堀にそって通っている。

元々、靖国通りと外堀通り、JRが交わる市ヶ谷は要所であったが、戦後地下鉄網が東京に張り巡らされると、この市ヶ谷は都心部でも屈指の「交通の要所」へと変貌を遂げた。

市ヶ谷駅は、1895年に現在の中央線の前身にあたる「甲武鉄道」の駅として開業し、また駅前には都電が乗り入れていた。その後、1974年には営団地下鉄有楽町線が開通、その後1980年に都営地下鉄新宿線、1996年に営団地下鉄南北線がそれぞれ開通。

現在ではJR総武線各駅停車・東京メトロ有楽町線および南北線、都営地下鉄新宿線の4路線が乗り入れる、都内有数のターミナル駅として成長した。

市ヶ谷駅

都心部でも屈指の「交通の要所」である市ヶ谷駅の利便性は、これも都内でも有数。

乗り入れ4路線を利用すれば、新宿・池袋・六本木(六本木一丁目)・銀座(銀座一丁目)・秋葉原などのショッピングタウンや、永田町や霞ヶ関(桜田門)・溜池山王といったビジネスセンターまでダイレクトアクセスが可能だ。

新宿駅までは都営新宿線急行利用で1駅4分(平日昼間の標準時。以下同)、秋葉原駅までは総武線各駅停車利用で3駅8分、銀座一丁目駅までは有楽町線利用で4駅9分、六本木一丁目駅までは有楽町線利用で3駅8分、などなど、主要駅まであっというまに到着できる。

「都心だから当たり前じゃない?」と思うかも知れないが、新宿・銀座・六本木までダイレクトアクセス可能で、しかも10分以内で到着できる場所というのは、じつはこの市ヶ谷駅と青山一丁目駅以外に存在しないのだ※1。

※編集部調べ。「各駅へ15分」という条件ならば、麻布十番駅・飯田橋駅・霞ヶ関駅なども含まれる。

市ヶ谷駅

このエリアでは都営地下鉄大江戸線も大いに利用できる。たとえば牛込柳町駅からならば、新宿(新宿西口駅)までなら2駅4分と新宿方面への交通アクセスはとても便利。そのほか、上野広小路駅までは4駅10分で直通できる。

また両国や門前仲町・月島といった下町の観光エリアや勝どきなどのベイエリアへもダイレクトアクセス可能なので、休みの日の行動範囲は大きく広がるだろう。

市ヶ谷駅

職場と遊びの場所、そして居住が近いことは、人生において有意義な時間が増える。その点でも居住エリアの利便性というのは、住居の選択において大きなポイントとなりそうだ。

町の名前から江戸を偲ぶ

細工町・納戸町・二十騎町・山伏町・箪笥町・矢来町…。

現在の日本国内では「住居表示に関する法律」により、昔ながらの呼称である町名や歴史的に由来のある町名がどんどん消滅しつつある。その中で、これらの町名はまだ新宿区の牛込・神楽坂エリアにおいて存続している。

もちろん一つ一つの町名には由緒ある由来があり、現代の意味合いとは違うものが多い。もともとこれらの町名がある牛込エリアは、江戸時代にさかのぼると武家屋敷が数多く立地する「高級住宅街」であった。

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「細工町」は江戸城内の建物・道具の修理・製作にあたっていた人たちの居住エリアであり、「納戸町」は納戸役と呼ばれた役人の居住エリアだ。彼らは将軍のてもとにある金銀・衣服・調度の出納や大名旗下の献上品・将軍の下賜品などの管理をしていた。

「二十騎町」は先手与力の屋敷地のこと。由来は1組10人で構成される先手与力が、2組20人居住していたことから俗称され、そのまま現在の「二十騎町」として残っている。

「箪笥町」の箪笥は、私たちの知っている家具であるタンスとは違い「武器」という意味合いだ。幕府の武器をつかさどる具足奉行・弓矢鑓奉行組同心の拝領屋敷があったため「箪笥町」と呼ばれている。

「山伏町」は山伏など修験僧が多くいたことから、「矢来町」はこの地にあった武家屋敷である酒井屋敷の垣根が竹矢来であったことからといわれている。現在では、「矢来町」といえば「古き良き日本の街並みのお屋敷街であり」と言われ、またフランスのエスプリ(フランス人が多く居住している)か混在するような、東京でも珍しい情緒のある雰囲気をもつ地域となっている。

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またこの界隈、江戸時代から呼ばれている坂も点在している。大久保通りの南蔵院前の岩戸町から箪笥町へのぼる坂が「弁天坂」、南蔵院前から横寺町へのぼる石段を「袖摺坂」と言う。確かに通行人の互いの袖が摺りあわせるほどの狭い坂道であった。

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町の名前の由来を知った上でその界隈を歩いてみると、今までとは違った目線で見えてくるものがあったり、その町独特の香りが漂よってきたりする。ここは古きよき日本の時間が静かに流れている街である。

夏目漱石の愛した街・牛込

夏目坂 

日本の名だたる文豪のひとりである夏目漱石。彼は牛込馬場下(現在の新宿区喜久井町)で数代前から続く町方名主・夏目小兵衛直克の末子として誕生した。生家のあった坂は今では「夏目坂」と呼ばれ記念の石碑が立てらているが、父である夏目小兵衛直克がこの辺りの大地主であったので、という説もある。

夏目漱石生誕の地 

生家の近くにある誓閑寺の梵鐘については、漱石の作品の中で幾度となく登場しており、子ども心に印象的だったように思える。

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長じて漱石が、そしてまた多くの文人たちも愛してやまなかった街が牛込である。

江戸時代には、大名や旗本の住む武家屋敷が集中した地域であり、伝統ある山の手の住宅街だ。また一方で町屋も形成され、昔からの住民が多くコミュニティが現存する地でもある。現代でも当時を偲ばせる狭い路地は数多く残っており、住居表示も江戸時代の雰囲気を感じさせる地名が多く残っている。

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このエリアには、印刷・出版関係の会社が多く立地し、旺文社や新潮社などの大手出版社や大日本印刷などの出版会社が所在し「出版の街」と称されている。近代以降、漱石をはじめ尾崎紅葉など作家・文化人も数多く移りすんだ理由、街の通りに印刷や書籍にまつわる独特の香りが感じられるせいかもしれない。

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夏目坂の近く、漱石の終焉の地「漱石山房」は今では「漱石公園」として整備されている。

晩年の漱石はこの山房にて「吾輩は猫である」をはじめ「三四郎」「それから」「門」などの名作を生み出した。当初ここには東京朝日新聞の専属作家時代に仮り住まいとして居を構えていた。その当時、この山房には漱石を慕い小宮豊隆や鈴木三重吉、森田草平など多くの若い文人たちが出入りをしていたが、その後山房は木曜日のみサロンとして開放となり、そのメンバーは「木曜会」と称されるようになった。

その門下には内田百間、野上弥生子、さらに後の新思潮派につながる芥川龍之介や久米正雄といった小説家や、寺田寅彦、阿部次郎、などの学者もいた。

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このエリアが新宿区という日本でも有数の繁華街でありながら、全くの別の時間の流れがあり、文化の香り高い文人の街であるのは、先人たちの魂がこの街を支え守っているのかも知れない。

赤城神社

牛込地区の総鎮守「赤城神社」。もともとは上野国(現在の群馬県)の赤城神社の分霊を祀るために、正安2(1300)年、牛込早稲田村田島(現在の早稲田鶴巻町)で創建されたが、寛正元(1460)年に太田道灌が牛込台に遷奉。現在の地には弘治元(1555)年に移された。

祭神は岩筒雄命(いわつつおのみこと)。殖産・興業のほか、厄除け・学問成就などの利益がある。また、火防の神や芸術の神としても知られている。

境内には氏子たちが住む地それぞれの御輿を格納する倉などが建ち並び、古き良き時代を色濃く伝える建物が点在。早春には「神楽坂きものフリマ」なども開催され、こちらも古の雰囲気をよく残すイベントとして親しまれている。

赤城神社

赤城神社
住所:東京都新宿区赤城元町1-10
電話番号:03-3260-5071
参拝自由
http://www.akagijinja.or.jp/

毘沙門天 善国寺

文禄4(1595)年、かの徳川家康の命により創建され、“水戸黄門”として知られる徳川光圀も厚い信仰を寄せていた「善国寺」。

幾度かの火災により寛政4(1792)年に現在地へ移転して以来、付近の人々はおろか、全国より人を集める日蓮宗の名刹となっている。

通称は“神楽坂の毘沙門さま”。その通り名からも分かるように、「江戸の三大毘沙門」にも数えられる毘沙門天像を祀っている。この像は創建時より擁されているもので、普段は非公開。1・5・9月の寅の日のみの開帳となっている。

毘沙門天 善国寺

東京で開かれている縁日の発祥とも言われている善国寺。現在は「山ノ手七福神めぐり」のコースの1つとしても人気があり、朱印を押してもらうための台紙を片手に寺社をめぐる人々が後を絶たない。

善国寺
住所:東京都新宿区神楽坂5-36
電話番号:03-3269-0641
参詣自由
http://www.kagurazaka-bishamonten.com/ 

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